Data informed Crafts③ CONTEXT_3

Summary

データサイエンスの世界には、数々の著名なデータセットが存在するが、中でも特に有名なのが「Fisher’s Iris Dataset」だ。

このデータセットは、生物学および統計学の巨匠、ロナルド・エイルマー・フィッシャーが彼の研究で使用したものであり、アヤメ科に属する setosaversicolorvirginica 3種の花名と、それぞれに対応する花の特徴 ーがく片と花弁の長さと幅などー が収められている。

このデータセットを活用することで、花の特徴からその種を識別(予測)する精密な分類器を構築することができる。

私自身もかつて、データサイエンスの基礎を学ぶためにこのデータを使ったアヤメ分類モデルの構築に向き合っていた。

しかし、コードを書いている最中、何か本質的なものを見落としているような感覚にとらわれていた。この問題は、何のために何を解いているのだろう。

それから少しして、数学者・岡潔の言葉と出会った。次は、「数学とはどのような学問であるか」について岡潔が自身の言葉で説明したものである。

「たいていの大人は、花のところに心を集めることができます。心さえ集まれば、大自然の純粋直感(真智)が働いて花の美しさがわかるのです。」

「花や葉の色がわかっても、それが美しいとはなかなかわからない。どういう色の花だというのは知覚であって、きれいだというのとは違います。綺麗だというのは成所作智です。」

純粋直感(直接認識)、成所作智(叡智の目を開き、絶対界の感覚差別の現象を見せる能力)など、仏教的な世界観に根ざした岡潔の指向性が現れているが、言いたいことは比較的シンプルである。
そもそも、岡潔が生涯を通じて向き合った数学という世界では、「0」や「1」という概念を科学的に説明していない。人間には直感的にしか理解できない。

そんな「0」や「1」という概念を土台としている数学でこそ、その理解には理性だけではなく直感や感覚が重要となる。

岡潔によれば、「知」の根底は「情」にあり、「情的にわかる」ことは「知的にわかる」ことに先立つという。

岡潔は、数学という数字の世界 ー一見すると、人間の主観を徹底的に排除した、表面上の記号の操作のように思える世界ー を、「心」を使って探究したのである。

ロナルド・フィッシャーと岡潔の花の、花に対するアプローチには、顕著な対比が見られる。

一方では、客観的な事実として、データとして捉える「花」があり、もう一方では、心を使って直感的に感じ取る「花」がある。

あえて簡略化すると、データ化できる範囲を実体として捉える西洋的思想と、データ化できない体験にこそ実体の本質があるとする東洋的思想。

データは花の形態を記録し、分類するが、花が持つ本質的な美しさや、それを観る人々の感覚的な体験を捉えることはできない。

ここで、過去の有名な思想の対立についても触れたい。

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数世紀前、色彩に関する理解は、科学と芸術の間で熱い議論の的となっていた。この議論の中心には、イギリスの物理学者ニュートンとドイツの詩人ゲーテがいた。

科学の世界において、色彩の捉え方は長い間、物理学の領域とされてきた。ニュートンは『光学』で、光と色の関係を科学的に解析した結果を報告した。

ニュートンは色彩を光のスペクトル(光がプリズムを通すと複数の波長で表現される色に分かれることを発見した)、つまりデータとして捉えることで、色を物理的な現象として位置付けたのである。

しかし、それから約100年後、ゲーテは『色彩論』を出版し、ニュートンの視点に対して根本的に異なる色の捉え方を示した。
ゲーテは色彩を、単なる物理的な現象ではなく、人間の感覚としての色という観点から捉えたのである。

「ベンハムの独楽」は、ゲーテの色彩に対する考え方を端的に表している。ベンハムの独楽は円盤が白色と黒色の二色のみで塗り分けられているが、独楽を回すと、速度に併せて赤や青など弧状の薄い色が出現する。

ゲーテの色彩論は、このような人間の生理的、感覚的、精神的な作用に焦点を当て、「人間の感覚としての色」としての色彩論を作り上げた。ニュートンの物理的色彩論とは対照的である。

こうしたゲーテの考えの根底には、光と闇を対局的な存在と位置付ける古代ギリシャの宗教的な価値観(「光と闇の間に色彩が生まれる」)が存在していたため、「非科学的である」と当時の科学者には受け入れられなかった。

しかし、近年では、「知覚心理学」や「色彩心理学」の分野でその価値が再評価されている。

ゲーテ的なアプローチを「非科学的である」とラベルを貼ってしまうことは惜しい。

ゲーテの色彩論は、後に印象派の画家たちにも影響を与えたと考えられている。

印象派の巨匠、クロード・モネの「印象・日の出」は、港の朝の空気感を見事に表現している。

幾層にも割れた灰色の色調の中で、大胆に厚く盛り上げられた太陽反射のオレンジ色。

船のマスト、そして煙突のシルエットは霧の中にぼんやりと消えている。

はっきりと描かれた輪郭は一つも存在しない。

モネの作品は、色彩を通じて瞬間的な風景の印象を捉え、まるで自分が「その場」で「そう」感じたかのように、観る者に直接的な体験を引き起こす。

印象派の画家たちは、色彩を物理的な特性としてではなく、人間が色をどのように感じられるか、つまり主観的な体験として色彩を捉えていたのだ。

印象派以前の伝統的な写実絵画は、対象の物体を正しく綿密に描くことに主眼が置かれていたが、対してモネらは具体性を大胆に捨て、風景の持つ光や空気、印象を主題とした。

しかし、ゲーテ同様にモネのアプローチもまた、当時は簡単には受け入れられず、 風刺新聞『シャリヴァリ』に酷評の声が上がった。

「印象か。確かにわしもそう思った。わしも印象を受けたんだから。つまり、その印象が描かれているというわけだな。だが、なんという放漫、なんといういいかげんさだ!この海の絵よりも作りかけの壁紙の方が、まだよくできているくらいだ。」

「正しい絵画」がどのようなものであるかは私はわからない。

しかし、印象派と写実主義は対立するものではなく、本質的には、「客観的な観測(連続的な実体)」「主観的な体験(離散的なクオリア)」のどちらを「現実」と捉えるかという観点で同じ方向性を向いてたのではないか。

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以前、スタジオジブリの高畑勲を扱ったドキュメンタリーをテレビで見た。

ドキュメンタリーの中では「かぐや姫」の制作を指揮する高畑勲の姿が描かれていた。

「かぐや姫」は、それまでのジブリのスタイルと打って変わって、スケッチに近いタッチでの表現を追求した意欲的な作品であるが、「手書きのスケッチにこそ本物感がある」と語っていたことが印象的だ。


いずれの話も、離散的なデータと主観的なクオリア、どちらを「現実」として重視するかの立場の違いが見られる。

岡潔、ゲーテ、そしてモネらは、実体とクオリアが共存する我々人間の世界をより深く理解していると言えるのではないだろうか。

「美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。」 -- 小林秀雄

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